街の私娼

慶應元年、新開通の外国人散歩道は、北方・本牧から根岸の八幡橋附近に及んで居たので、酒楼や売女の取締り厳しく、此頃を限りに、飯盛女に類する私娼は消散したのであつたが、一方散歩道を点綴する外国人休憩所は、ちやぶやの前提を為す所の発展を来したのであつた。而して新興横浜を目掛けて、諸国各所より入り込む商人・労働者の群は、頗る多数を加へ、殊に諸職人の暖き懷ろ銭を目当てに出没する夜の女達は、関の内外に転々として随所に出現し、所謂夜鷹本能の嘴牙を磨くのであつた。常時の市中は、吉田橋関門(明治四年十一月撤去)廃止前で、夜鷹は路上の照明全く之を欠き、関外吉原町のみ明皎々と夜空に浮むのみであるので、闇に咲く女には、跳梁飛躍を恣にするには頗る格好でありた。