矢場の勃興

柳町河岸の麦湯店が盛つた明治九年八月に、芝居小屋蔦座が、程近い伊勢佐木町一丁目に新築され、明治二年、関内洲干から姿見町(現羽衣町)裏に遷座の弁天社(厳島神社)、三年、馬車道(常盤町四丁目)から移転の芝居さの松(後の羽衣座)、さては姿見町の吉原廓と相俟つて、此界隈の殷賑と共に、裏地横丁新道に掛けて麦湯と対立し、内実は売春行為を主要の営業とす石矢場(楊弓・投扇興・座敷鉄砲等の遊興場)が勃興し初めた。かくて明治十三年七月、観世物興行物は伊勢佐木町部内を限り、正式に許可され、更に翌十四年十二月、観世物取締規則が発令になつて、伊勢佐木町通り両裏界隈九個町を観世物興行地と定められた為め、殷賑更に加はり、同時に繁華の浦闇きに咲いて、喃々喋語する女達の巣喰ふ麦湯店、延長の業態である楊弓店・小料理屋などが増加した。越えて十七年四月、観世物興行場所を賑町附近の四箇町に改正されたので、彼等は逐次此界隈に移住したが、未だ旧所に止まるもの多数で、漫然広い地城の随所に亙つて、巣区を構へたのであつた。後年、足曵町・雲井町の地区に集合する迄には、可成りの年月を経ての事である。