曙町の一廓

震災後に於て、川一と筋対岸の真金町永楽町の遊廓地は、未だ復興成らず、営業を開始せざるに先ち、いち早く足曵町・雲井町・吉岡町の旧位置附近に散在して、仮設家屋に立籠り、営業を開始し、逐次繁栄を招致したが、旧来の保健に対する自覚も失はれ勝ちとなつたので、自家営業策の擁護から、有志協議の上、翌年末、現在の中区曙町三丁目三十二番地乃至四十五番地、彌生町三丁目二十五番地乃至三十五番地に瓦る地域、即ち区割整理(大正十五年)前の吉岡町一・二丁目一番地乃至十二番地竝に駿河町一・二丁目一番地乃至十一番地の一地域を割した地点に集団した。此一廓の道路に面する周囲の家屋は、普通商店が軒を竝べて居るのであるが、内廓を数條に割し、之に小路を通じ、同一形式の二階建の棟を竝べて、集団地域を割し、貸席の名の下に、女等は酌婦の名義を以て営業を開始した。今猶旧名であった所の吉岡町と云へば、其伝統の久しき、此社会の集合地である代名詞として、市人間に通用されて居る。是に於て営業者相謀り、横浜自衛保健組介を設置し、且り株式組織に依り、相互の営業策を円滑にし、之が改善に努めて居る。即ち黙認公許の観ある一遊廓地を出現したのである。

斯くて其数も五十四戸(昭和四年末調査)を数へ、毎戸に極彩色の酌婦両三名を抱へ、此廓裡の牙城に屯する百数十名の女達は、軒燈灯影暗き処、五彩の衣を飾り、白面の顔に笑を漂はし、香に慕び寄る男達を綾なしりゝ、喃々口説の痴情に夜を昼なる世界を浮めて居る。