慶応元年九月、外国人遊歩道竣工後、此沿道に休憩所が出来て、銘酒類を備へ、果ては給仕女がらしやめんとなつて進出した頃、時宜適応の術策とばかりに、居留地に近い元町の谷戸地界隈に巣喰つた魔性の女が、外国人を相手に売淫を為す者が頻出し、漸を追うて多数になつて来たので、明治元年五月、神奈川県布達を以て、淫売女及余多嫁と唱ふる汚業の者取締之事」と云ふ禁令を発した。
ヨタカと唱へ、在中人家門先に彳み、往来の外国人を引張り候儀相聞へ、以の外の所業にて、御国辱にも相成候間、此上売女等の所業に及び候ものは、無容赦召捕、及吟味候。
明治二年正月、更に一売淫女取締及処分方之事」の令を発した。
元町辺にて遊女屋に紛敷取扱致し、婬売女拘置き候者有之候由、不届の至りに付、此上右様の所業に及び候者は、当人は勿論、差置候者迄召捕、婬売女は吉原町へ為引取候
と觸達をした。当時元町四五丁目辺の裏町、及び箕輸坂(御代官坂)附近の家々には、宛然遊女屋に類する稼業を営み、内外人を顧客として居たのであつた。されば売淫女発覚召捕の上は、横浜遊廓開設以来の慣習に規り、遊女の籍に置き、更に外国人の抱へ妾として取扱ふ手段を取つたのである。されど此取締りも有名無実に終り、巧妙の手段を以て、更に発展を逞しうしたので、翌年十月、極端なる「売淫女厳重取締の事」を布達した。其略に曰く、
往来の外国人へ売婬致者有之に於ては、当人を始め、関係者一同に罪申付、其町村役人一家主共、夫々厳重の可及沙汰云々。