横浜沿革誌に、
明治四年五目、外国水夫ニ気発ノ酒類ヲ売渡ス事ヲ禁ズ。
外国水人上陸スルヤ、酒店及西洋酒店ニ至ルヲ常トス。故ニ洋酒類ヲ販売スルモノ日ニ増加シ,随テ酔酩者モ亦増加シ、間々暴乱スル事アリテ、取締上甚ダ困難ノ場合不尠ヲ以テ、此禁令アリ。
と見えて居るが、此取締りの令達は、
外国人水夫共に、彼我気発之酒売渡し、其場おゐて直ニ呑セ候、酩酊いたし、道路に酔臥、又者酔狂ひ、往来ニテ乱暴之所業ニおよび候義、度々有之候ニ就テ者、見世先におひて売渡呑せ候義者勿論、持参之洋酒とても為呑候議者不相成候旨、兼テ県庁より触渡置候処、近頃其情実相失ひ、喰料品願済を名儀与して、彼連より持参いたし候抔与相唱へ、コップ売等いたし候もの有之哉之趣相聞、右者以之外之義ニテ、人がため外国人におひても、遊情之もの間々有之、屡々苦情差発、必竟銘々一己之利潤におよび候、右様之義ニも押障り候義にて、向後心得違之もの有之、猥ニ気発之酒売渡為呑候義有之ニおひてハ、各国に対し候テも、如何ニも当港之取締筋不相立候義ニ付、以来触面相付候もの有之ニおいてハ、厳重之糺問可申付候。其節ニ至り、悔悟無之様急度可申付候事。
右之通触達候間、酒渡世唐物渡世戸者ハ勿論、小前末々ニ至迄不洩様触示し、別紙令請印、刻附を以て、早々順達、留よりり可相辺事。 未年五月十四日 糺問局
とあつて、当時の神奈川県庁糺問局から触れ達したものである。
横浜開港以後、渡来外人の数は、順次に増加して来た。軍艦乗込みの水兵や、商船蒸汽船の乗組水夫は、波濤万里の異境に在つて無聊を慰め、寂寥鬱勃の気を発散する為め、酒に浸る事は当然の欲求で、又止むを得ない事である。併しながら、酩酊の果ては、酔臥又は酔狂ひ、乱暴の所業に及よものを出し、殊に水夫等は帰船時間に乗組み遅れ、本船の出帆に残されて、市中を浮浪し、其極乞食同様の生活を為す者さへ生ずる有様となつた。されば右の禁令に次いで、神奈川県庁は是に関連した触達を市中及び近在の宿々村々へ発布した。
当節各国人中、為テ乞食致し、強テ施物請求候者付之候趣相聞候処、右様之節は、請求人国銘・名前等隠に承り糺し、若言語不通之者ハ、横文ニ為認、其段可届出事。
右之通触達候間、小前末々迄不洩様、触達可申候。別紙令請印刻付以、早々順達、留りより可相返者也。 辛未五月二十二日 神奈川県庁
斯かる触達を以て、飲酒の果て乞食同様の生活に墜ちた浮浪外人を取締つたが、彼等の要求に依り、一には利潤の前に膝を屈して、秘密に気発酒類を提供するもの、依然として多く市中に散在し、且つ居留地々内にも外国人経営の銘酒販売店もあり、殊に支那町に於ては、利己主義の豊かな彼等に依つて飲用者を増加し、助長され、為めに続々渡来する外国水夫等も、前車の轍を踏むもの夥し く、同じ様な触達を再三繰り返したと云ふ事である。当時居留地々内を根拠とする淫売婦と共に、之が取締りには難渋したのであつた。
家庭叢談(明治九年一二月二日第三十四号。)登載記事に、ヘラルド紙から現文を転載したる趣にて、左の如く見える。
市内に在留する外国人の内にて、飯も食へず着物も着得ず、住居なしと云ふもの二十人計りもある由にて、間々飢へて死するもあり。殊に此寒む空に向ひ、着物の不足なるより、震ひ死ぬるもあり。如何にも哀れを極めたれば、或る情け深き外人が、深くこれを憂へて、今度此人々を救助する為に、居留地八十六番へ夜泊所を設け、朝晩の食事より、寝衣等迄給与なし、居留地に於て非業の死を遂ぐるものなからん事を諜るとて、エー・ゼー・ウイルキンといえる人が、専ら此事を担当して、世話をなし、厚志の人々より寄附金あれば、同人の許にて之を受取るべし。
本記事は、是等の乞食乃至浮浪人が酔狂者り果てでない迄も、多分に此間の消息を伝へて居る如く思はれるのである。
以上の如き事態の下に在在し来つた銘酒販売店に対する監視と、前節記述の居留地淫売婦取締りとは、両者密接の関係に置かれ、対外関係上、風紀の顧慮と保健施設とには、我が官警も長い間少なからぬ焦慮を払つたものであつた。