かくて埋地々内の扇町・不老町・壽町界隈に相次いで開業数軒に及んだので、日本人の酒鋪にて西洋酒を販売するものは、漸次減少した。かくて居留地に於ても、此種外国人経営の銘酒店簇出し、遂には関内に於ても、横浜公園寄りの町々即ち常磐町・尾上町・真砂町の各一・二丁目附近に散在して、十数軒の開業を見るに至った。此外国人銘酒店の分布地帯は、居留地を振り出しに、関内に進出し、花園橋・港橋を越えて埋地に入り、更に真金町・永楽町の異人女郎屋を地理的に連絡し、茲に一脈の系統線を形成し、立飲式の異国情緒豊かなものであった。而して銘酒店に働く女達も、自然の附帯物として、其必要に促されて存在して居たことは、あまりにも当然である。彼女等の前身は所謂らしやめん上り、乃至居留地を中心に活動する処の淫売女等の如き、所謂渡り者、喰ひ詰め者である。斯かる内容を持つ銘酒店として、そこに秘密行為も行はれる事は、寧ろ常習の有様であった。即ち銘酒屋は一箇の淫売窟であり、ちやぶやでもあった。而して波止場に稼ぐリキッヤマンは銘酒屋への外人(主として船員。)案内者であつた。彼等の上陸を迎ふるや、車上に招じて、除歩しつゝ、所謂マドロス語でもある所の横浜言葉を巧妙に操って、次から次へと銘酒屋を経めぐり、市中を曳き廻し、果ては遊廓の異人女郎屋に迭り込むのであった。かゝる情景は、明治中期頃を最も全盛時として、末年頃まで入港の外国艦船ある毎に、濃厚なる海港風景を浮べて居たが、彼等の嗜好傾向と時代の推移とに依り、銘酒屋の存在は、漸次其影薄らぎ、後章記述のちやぶや集団地たる北方・小港・本牧、及び大丸谷の地に総合的享楽を追求する様になった。