外国人遊歩区域の設定

安政五年、江戸に於て締結した五国通商条約の中に、「日本開港の場所に於て、遊歩の規定左の如し」とあり、之が区域を定めて「神奈川、江戸の方六郷川筋を限りとし、其他は各方へ十里」と記され、横浜(神奈川)を中心として、各方へ十里以内が遊歩区域であつた。然るに開港後渡来の外国人は、盛に東海道筋を遊覧し、日本の風俗慣習に驚異の眼を放ち、山川の風景を讃美したのであつたが、当時勤王攘夷の思想が旺盛であり、且つ言語不通の関係から、兎角に危難に遭遇するもの多く、就中、文久元年八月に於ける生麦事変の如き大事件を惹起し、其都度幕府は是等の取締りに尠なからず神経を痛めて居たのであつた。斯くて外人等は永久に安住すべき方策につき、彼我折衝の結果、元治元年九月、英公使オールコック、米公使プルーンは、神奈川奉行土岐大隅守・白石忠太夫、外国奉行柴田日向守と、英国公使館に会同し、協議の末、居留地諸整備の件々を締粘し、元治元年十一月二十一日附を以て、所謂元治覚書なるものが出来た。(政治編二の五一五頁を参照。)