外人も漸次顔馴染となるに従ひ、人種は異つてゐても脂粉を粧ふ異性に親しみと需要とを感じて来た。是に於て土地や近在の娘さん達は、昨日に変る粧ひ美々しく、異国人を接待する様になつて、単なる休憩所ではなくなつたのである。斯くて此沿道や界隈には、多くの曖昧屋乃至もぐりの休憩所が出来たのであるが、之が所謂ちやぶ屋と命名される迄には、可成りの年月を経たのは無論の事で、明治期に入りて、過渡期を経、更に十五六箇年に至つた頃であると想はれる。さうして此間、他地方から出稼ぎ式の女である娘さん達は、休憩所で媚を売る一方、情約成立し、洋妾(らしやめん)として異人館人りとなつたのは当然である。爾後横浜に眉目秀麗の混血児の多かつたのは、実に此恋の結品であり、愛の玉子として育ぐまれた結果である。
右の如くちやぶやの濫觴は、外国人遊歩道設置後の休憩所に起原したもので、最初は頗る単純に民家の軒先、又は土間を開放したものに過ぎなかつたものであるが、次第に発展と共に、洋式に改造し、異国人の心情に迎介するに努めたのである。休憩所の形成が稍々整つた明治初年の如きは、波濤万里を横浜沖に投錨した船員達に依つて、バッテイラが本牧の磯浜に繋がれ、三々五々上陸して、日本娘にあこがれ、さては薫酒に陶酔したと言はれて居る。