ちやぶやなる名称を呼び始めた時期は、何時の頃からであるかは判明しないが、前述の人力車夫、則ちちやぶやの仲介者であるリキシャマンの巧みな造語であつた事を想ふに難くはない。人力車の創製は、明治三年以後であり、其流行を来したのも、其後二三箇年を経過した頃で、其前後から北方・本牧・根岸界隈に、所謂もぐりである外国人への売笑婦が巣喰ひ始め、それから表面的になつて来たのは、明治十五六年頃からの事である。従つてちやぶやなる称呼は、其後に属するものであると考察さるゝのである。是れより先、文久元年八月、生麦英人殺傷事変後、元治元年四月、居留地人を保護の為め、赤隊の英兵、青服の仏兵が、谷戸坂上山手居留地に駐屯した頃、附近の居酒屋に来て、手真似や様子で飮食物を要求したのであつたが、其結果酒を売り、殊に彼等嗜好の肉片料理の需要にも応じた。此時既にチヨップ・ハウスの語が、彼等の口から称へられたと云ふが、慶応元年九月竣成の外国人遊歩道に施設した外国人休憩所も、実質に於ては簡易食堂とも云ふべきちやぶやの版図に属し、且つ其本質たる所謂ちやぶやであつたとも考へられる。