初期のちやぶや

外国人遊歩道の沿線に、幕府当路の慫慂に依つて設置された休憩所は、最初僅に十三軒であつた。元来此休憩所は便宜上のものであつたので、営業はすべて黙許の有様で、全く自由不拘束のものであつた。従つて休憩所の増減改廃も幾度か行はれたのであるが、外人には誠に格好な遊楽場であつた。かくて利潤も多かつたのに乗じて、摸倣者の出来たのは当然で、これ等は居留地に近い地利の関係上、北方・本牧附近に続出し、遊歩道沿ひの休憩所も此所に集中の姿となり、明治十年前後には、三十数軒の営業者が媚を売るべく活躍したと云はれて居るが、中流以上の外人を迎ふるには、頗る貧弱な設備であつた為め、下級船員が其主なる顧客であつた。