明治十五六年頃、遊歩道設置以来の旧家本牧天徳寺下の樓屋附近の水田を埋め立て、春木屋と称する銘酒店が出現した。次いで小港の大黒屋・時川が出来、上台へは梅木、北方へは大野屋など云ふ店が何れも媚を売る女を抱へて、内容外観とも組織的な営業を開始した。(其等の家々は、明治末年頃から何々ハウス、更に大正期に入り、ホテルと改称した。)以上はもぐり屋の俗称時代を過ぎて、所謂ちやぶ屋らしい営業方策に這入つた最初とも見られると同時に、純然たるちやぶやの元祖であつた。さうして上流の外国人も、時には馬車を馳駆して訪れ来り、千客万来の繁昌を招く様になつた。二十五六年頃には、本牧に三十軒余、北方に十軒余、石川町の地蔵坂、根岸柏葉の桜道に掛けて七八軒、元町裏通りに十数軒のちやぶやが出来た。