爾後、日清・日露両戦役前後を中心として、愈々繁昌を招来し、明治末年を過ぎて、大正初年に亙り、居留地支那町界隈に八九軒(前田橋通りには外国婦人のみのちやぶやが三四軒在つた。)及び関内の一部に十数軒(相生・住吉・常磐・尾上町附近。)と、埋地界隈に七八軒(不老町・寿町・扇町附近。)とが進出し、さては野毛山下・紅葉橋河岸にも三四軒出現した。市中に散在するちやぶやの構造は、特に建築したものゝ外、在来の日本家屋を利用し、表構へはペンキ塗洋式に改造し、屋号も日本の花鳥等の雅名や、外国の国号・都会名や、港名乃至花卉名、或は自己の名前を冠して、ハウスと称したが、四五軒の営業者は、ホテル名義のものもあつた。而して門頭高く硝子張りの角燈には、横文で書き記し、其国々の国旗を掲げて歓迎の意を表し、彼等を迎合するのであつた。