関内及び埋地のちやぶやは、永楽町真金町遊廓の異人屋(外国人相手の貸座敷)に対し、関門たる地点に在つて其鎖鑰を為し、後者は野毛山遊覧の帰途を擁止する方策からの分布的進出であつた。而して従来の営業者は、新陳代謝、廃合するものなどあつて、市内への進出も多く、本牧・北方の営業者を除いて、結局六十軒以上を算するに至つた。此期間は市内随所に散在し、外国人のみを顧客とした時で、ちやぶや自体の本質と性能とをもぐり式に最も濃厚に描き出した時代で、約三百人の女達が活躍したと言はれて居る。
日本帝国の玄関たる横浜へ入港の船上から、最初に眺め得るのは、本牧の鼻である。彼等の頭への連想は、ちやぶ屋のパラダイスである。戦勝国日本を訪ふ外人は、上陸するや否や、人力車を呼べばリキシャマンは強制的に、ちやぶやに案内する有様であつた。かくて需給を円滑に受持つ国際的名物となつた。