大正期の集団地

大正初年に至り、警察当局は、従来永き経過に置かれてあつた売笑婦の散在制を改め、其業態上、行政治安の上から、一地区内で営業すべき方針を取つたところ、ちやぶやの発祥地として、遊歩道時代から有利の地区であつた本牧の原及び小港附近に集合し、一方関内埋地方面のものも、石川仲町一・二丁目寄り、山手の大丸谷附近に集団し、大正八・九年頃には、大方此両地域に集則する様になり、現在小港二十六軒(二百人余)大丸谷十六軒(百名余)の女達に依つて飛躍され、本牧は上の部に属し、大丸谷は主として外国下級船員等の享楽場となつて居た。震後は以上両所とも、官憲の取締りに依つて小港及び大丸谷の地区を限りに営業して居る。大丸谷の外人客専門に対して、小港は営業政策を一変して、多くは邦人対手に進出し、近代人の要望を充たして、時代の尖端を歩んで居る。

かくしてちやぶやは、当初の真摯なる態度を持した頃から、もぐり営業に入つた遊歩道時代、其最も全盛であつたハウスからホテルに延長した散在時代、世相の推移は邦人顧客をも迎ふるに至つた集団地区に根拠する昭和時代と、各々其時世相に育ぐまれて、永き変遷を辿り、一面にはバーであり、他面にはダンスホールであり、而して猶且、私娼を営業して、総合的の享楽場乃至歓楽の天国として、横浜独創の情緒を多量に漲らして居る。