高潮期と営業策

ちやぶ屋の最も高潮した明治二十年頃から、日清・日露の両戦役前後は、横浜の市況も共に爛熟期であり、射幸心の旺盛なる時期であつた。支那人を始め渡来の外国人や居留地に労資の関係を持つ邦人間には、賭博行為の頗る勇敢に取引された折柄、殊に毎歳春秋二期に挙行する根岸競馬場の全盛時で、万事賭け事に終始する時代とて、開港当時から遊廓方面に於て盛に遊興されたチヨンキナ踊り(三味線に拳唄を乗せて勝負、の結果、女達をして一1一枚衣を脱がせて果ては裸体に迄に及ぶ踊り。)も、更にかうした時代の復活的乱痴気騒ぎで、金銭の捨場に困つた結果の所産である。而して其輪廓や周囲は、何時もリキシャマンに依つて繋がれて居るので、是等の取締りには種々の方策を講じたが、其効果はなかつた。ちやぶやを内部的に取締る一方法として、最初明治二十二年四月二十四日、県令第二四号、宿屋取締規則に依つて見たが、中には西洋料理業を標榜しながら、料理は外部より仰ぎ、而かも酒類は豊富に用意し、両者混同の有様でちやぶやたる性能の発揮の前には、拘留も罰金も怖れぬ輩とて、如何な取締法でも有名無実の有様でありた。

明治三十二年頃、前の宿屋取締令を改善し、ちやぶやに命じて、ベットの使用を禁じ、其他巨細に亙る厳命を発したが、窮余の彼等は、大形の椅子を使用して、当意即妙の方法を取り、更に評判と全盛とを招くのであつた。斯く巧妙に遂行されて、取締りも一向に反応無く、依然として其態様を改善せず、何の効果も掴めなかつた。