遊歩道創設期乃至明治初年に亙る間のちやぶや女は、比較的真面目で、其風姿も日本風であると同時に、外国人にも珍しい日本風俗を喜ばれ、それへの迎合に努めた事を想像され、従つて品性も下劣なものは少なかつたと言はれて居るが、無論外国人を対手として媚を売り遊興を助ける彼等は、漸次荒さび心に移つて行くのは当然である。ちやぶやの業態として、組織立つた明治十五年頃以後の彼女等の多くは、房総・相模地方の海岸地に生ひ立つたものが多かつた。而して桂庵渡りの泳ぎ上手な女であつた。時には世を捨鉢な女も交つて居た。化粧や風姿も自然から遠ざかつて、濃厚味に移り、無智で強かの思想の所持者として、羞恥心の欠如甚しく、不調和な体躯を脂粉と派手好みの衣裳とに隠して、彼等一流の外国語、即ち日本造語を巧みに操縦し、手練手管も綾に芽出度く、異国人に対するのであつた。日清戦役前、外国人は真の日本を解せず、東洋の一小国を以て目し、支那人と同列以下に置かれた時代ではあつたが、此ちやぶや女に掛つては、弗入は空虚にされて追放される仕儀であつた。
最も巧妙に日本式外国語、即ち波止場語を操縦する所のリキシャマンに導かれた彼等異国人を、リキシャマンから引継いだちやぶや女は、一見して直ちに懐中の冷温と軽重とを透視する。かくて彼等は美酒に陶酔し、桃源郷に遊び、所謂縞の財布は空になつて終ふのが常規である。日清役を過ぎ、次いで日露役を経て、頓に世界に進出した日本は、東洋の楽園一大美郷としてあこがれの的となり、渡来の外人相踵ぐに至つて、上陸第一歩に導かるゝちやぶやの濃艶なる酔魔郷には魂魄九天に飛遊の趣であつた。