南蛮人に依つて交易を開拓された九州沿岸地方、殊に長崎へは、天正年間以来、多数の外国人が来港したのであるが、寛永年中、出島に和蘭屋敷、元禄二年、十善寺に唐人屋敷を施設以来、其地の遊女乃至日本婦人で、彼等と関係した者も可成りの数であつた。寛政年間以後、和蘭人則ち紅毛人が川島に居留する様になつて、丸山遊女は盛に出入し、唐人も遊女との情交に密度を加へた。此頃丸山遊女は唐人行、阿蘭陀行の名称が用ゐられて居た。文政年間、長崎に渡来した蘭医にして博物学者であるシーボル卜は、丸山遊女其扇(楠本たき)と同棲し、日本の学究者を薫陶し、文化史上多大の貢献をした事は、著名な事蹟であつて、彼女も当時の洋妾でもあつたのである。
安政開港以降、阿蘭陀人及び其他の外国人居留地、或は休息する場所へ、従前の通り丸山遊女が行く様になつたので、自然大浦行出島行・稲佐行・外国館行の名称が起つた。則ち大浦の唐人尾敷、出島の和蘭屋敷、稲佐の露西亜屋敷へ行つたので、稲佐行遊女は一名をロシヤ女郎衆とも呼ばれて居た。猶外に名付遊女又は仕切遊女と称するものがあつた。此種の遊女は単に名義だけ遊女屋に籍を置いて、唐紅毛人その他の外国人に関係し、彼等から遊女の名義を除けば、純一なる洋妾に外ならぬものであつた。