らしやめん始祖おてふ

是れより先、神奈川宿長延寺駐紮の和蘭領事ポルスブルク(日本を能く諒解したなかなかの粋人で、横浜村の開港を認め、居留地の実現に務め、率先して開港後三年目(文久元年)には、領事館を洲干弁天社脇に移した人である。)の許に、当宿桑名屋の飯盛女おしまが、奉行所の承認を経て出張したと言はれて居るが、之を徽証すべき文献を存しない。其後ポルスブルクは散歩の砌り、本町通り二丁目の商人文吉の娘おてふ(当時二十二歳。)を見染め、愛著禁ずや能はず、洋銀百枚で雇ひ入れの交渉をしたが、此時既に公娼で無い者は、外国人の妾たる事を得ない制となつて居たので、仮りに岩亀楼抱への遊女となり、源氏名を長山と改め、万延元年十月八日から、月極め十五両のらしやめん女郎となつたのである。長山は何時まで屋敷生活を続けたかは不明であるが、文久二年十月板行の「横浜ばなし」に「異国重役人之部」として領事公使の名寄せがある中に、

和蘭役人 役名 コンシユル

名 ボスボクス

小使頭 佐吉

別当 豊吉

ラシヤメン  てう

とあるのは、岡士ポルスブルクと、洋妾おてふの事であると判ぜられるのである。此頃かららしやめんと云ふ名称が起ったものと想はれる。即ち公娼でない長山のおてふは、正式なるらしやめんであり、横浜に於ける元祖であり、やがて日本に於けるらしやめん名称の始原を為すものであつたと推想されるのである。