開港当初、遊女屋を設けた地は、現在の県庁舎附近であつて、そこの仮設家屋で営業を開始したのであるが、正式に遊廓としての施設は安政六年十一月に入つて、現在の横浜公国の地域に港崎廓が出来てからである。此時から正式に遊女は商館行、即ち異人屋敷行を認められたのであつて、それ以前、遊女又は町女で異人屋敷に出入したものはあつても、非公式の承認であつた。爾来商館行の遊女は、必ず鑑札を交付する制規と為り、之を異人女郎又はらしやめん女郎と称した。町女にして外国人の妾となるには、一旦遊女籍に其身を置き、然る後らしやめんとなるので、当時当路の役人は、素人たる町女が外国人の妾となる事は国辱なりとして、公娼以外のものは絶対に外国人の妾となる事を許さなかつた。殊に他面当時の国情が攘夷論に傾き、とかくに外国人を蔑視して居たので、町人の女迄が外国人の玩弄物となる事は、益々反感を高め、過激の思潮を助長する所以ともなるので、かゝる顧慮からして、らしやめんとなるには、岩亀楼主佐藤佐吉宅に籍を置き、源氏名を附け、所謂名付遊女乃至仕切遊女の名目の下に、らしやめんとなつたのである。