岩亀楼主は廓舎所預り人として、又廓名主として、遊女に関する取締り其他一切の権限を附与されて居た。廓名主は名前借のらしやめんから一両二分の歩合金を月々納入せしむる約束で、『万一相滞り候節は、直ちに楼主の許に立帰り、他の遊女と同様に相稼ぎ、屹度弁償可レ仕候云々」の一札を差入れて、らしやめん女郎、即ち商館行らしやめんたる事を認許した。而して此種の名前借に対しては、廓名主から奉行所へ、誰々は商館行きしたと云ふ一片の届出でに止まりて居た。是等も幕府当路は、此方面には攘与論者等の関係から、直接に関与せざる如き態度を持した用意でもあつた。故に事実上許可の実権と歩合金の徴牧とは、岩亀楼主の権利に属し、港崎遊廓時代から、明治四年、吉原廓焼失後、高島町遊廓へ移転の直前まで継続されて居た。