らしやめん女郎楊代

駒形町の仮廓、港崎町遊廓時代の揚代金は明瞭でないが、遊興外人の風態を視て、上中下の敵役を出し、若くは彼等の見立に依つて扱ひ、二両から三両の程度であつたと云はれて居る。更に明治期に入つて、吉原廓高島町廓時代には、三両前後を往来して居たが、真金永楽町廓に移ってから以後は、五両前後が普通であつたと言はれて居る。要するに妓楼の格式、敵娼の上下の品位に依つた事は勿論で、其大略は定まつて居たのであるが、外国人とさへ見れば金箱視して、約束以外の利純を収めた弊風も、可成り永く伴つたものと思はれる。元治二年版、みよさき細見記に、

岩亀楼異人遊女

一ヶ月仕切 ドル 五十枚

半月仕切 ドル 二十五枚

一夜行 ドル 五枚

外の遊女屋

一ヶ月仕切 ドル 二十五枚ニ金二分

半月仕切 ドル 十三枚ニ金一分

一夜行 ドル 二枚

とあつて、岩亀楼の如きは異人館を建築し、遊興座敷善美を盡した関係から、他の遊女屋に比して、可成りな高値なものであつた。岩亀楼は他楼の約二倍上位の地位を占め、遊女にも優秀艶美なものが多く、断然最高位に在つた。明治四年版、横浜吉原細見記に、

大見世小見世共遊女商館行月仕切直段

上 一ヶ月 金二十両

中 同 金十五両

下 同 金十両

同行遊女昼夜行不同無レ之

昼夜 金三両

片仕舞 金一両二分

とある。以上は何れも此中から廓会所へ歩合金として、商館迄の往復駕籠賃持切りにて、一両二分(片仕舞は半額。)を各等の区別なく徴集した。