商館行直段は、元治年間から約七八年を経た明治四年に至つて頗る低額となつた。此間多少の変動はあつたに相違ないが、当初岩亀楼に於ける一箇月仕切がドル五十枚(三十七円五十銭。)であつたのに比し、明治四年には、岩亀楼格即ち大見世に於ける上一箇月が金二十両となり、十数両の低廉さを示して居る。これは明治も既に三四年となつた頃は、もぐりらしやめんが多数を占めて居たと云ふ事から推察して、遊廓に於ける職業婦に倦怠を感じた外人は、其趣好が殆ど町娘に移つた結果、之が対抗策として低位の直段を以て需要に応じたもので、所謂らしやめん女郎の衰徽を来たしたものと見られる。かくて明治五年に、遊女解放令と共に、らしやめんの制を解き、かゝる相場附も消滅した。爾後らしやめん稼業は、相互関係の協定価に依つて、彼女達の生活は保障された。