文久元年七月、幕府は江戸品川御殿山に英国公使館の建設を許した。此頃から可成り多数の日本娘が役館に出入した。麻布善福寺滞留の米公使ハリスや、秘書のヒュースケンや、品川東漸寺英国館でも、日本娘を抱へた。是等は眥出入商人の仲介で、下層階級の婦人であつた。何れも小間遣乃至下婢と云ふ名目であつたが、其実は妾であつて、毛唐人妾などと称せられて居たと云ふ事である。横浜開港後、既にらしやめんと云ふ呼名が起つたものとずれば、江戸にも此頃既に侍女なる名義の下に、純然たるらしやめんは存在して居たのである。たゞ遊女籍にあらざるものが、外人の妾となつて居る事実は、江戸の居留外人は公使館附のもののみであつた関係から、下婢乃至侍女の名に隠れて居たものであり、幕府も外交政策上黙認したものと想はれる。