らしやめん嘲罵と外国人の苦情

横浜沿革誌、万延元年の条、外国人妾の部に、

人皆之ヲ憎ムコト讐敵ノ如ク、罵詈シテ羅紗綿卜呼ブ。之ニ反シ得意トスルモノハ、呉服商・小間物商ナリ。是レ需要品ノ高価ヲ諭ゼズシテ購売シ、従テ利スル所アル故ナラン。彼等鑑札料ノ義務ヲ怠タル卉ハ、其楼主ニ帰リ、一般ノ娼妓卜同ジク業ヲ営ミ、之ヲ弁償セシム。楼主ハ楼名ヲ貸与スルニ過ギズシテ、公然其妾税ヲ得ルノ僥倖アルニモ飽カズシテ、斯ル苛法ヲ行フ。然ルニ其不仁ヲ責メズシテ、却テ彼等ヲ憎ムモノハ、亦僥倖卜謂ベシ。

と著者は言つて居る。当時らしやめんは衆人悪罵の標的であつて、攘夷志士の如きは国辱なりと断じて、痛罵を浴びせ掛け、市井の硬骨漢は罵言を具体化して、悪戯的手段を敢て行ふのであつた。商館行のらしやめん女郎の乗つた籠を、薄暮の途上に襲うて水を掛け、馬糞を投げつけ、或はらしやめん娘を途上に捕へて衣を剥ぎ、路傍の樹木に繋ぐなど、反感的悪戯は次々に続いたのであつた。斯うした事は四五箇年継続され、奉行所の内命に依久市中取締役の一つの役目でもあつたが、慶応末年あたりから、町娘や出稼ぎらしやめんが多数異人屋敷に出入する様になると同時に、従来の無恥厚顔にして理性の欠けて居たらしやめんの素質も、彼女等自身の自覚から進歩改善されたので、悪罵を浴びするものも減少した。而して此頃既に千人余を数ふる盛況であつたと

云ふ事である。

らしやめん嘲笑の罵声が喧しくなり、果ては彼等を要撃して危害を加へまじき事態となつたので、当時らしやめんを抱へて居る外国人は、我等が寵愛する婦人に対して悪戯暴行を敢てし、侮辱を加ふることは、明かに我等への反抗であり、侮辱であるとなし、奉行所へ抗議に及んだ。此先駆者はらしやめん女郎長山のおてふを抱へた阿蘭陀領事であつたと言はれて居る。続いて各国人は各々其領事館を通じて、奉行所への抗議は頻りであつた。為めに奉行所は廓方と協議の上、自昼らしやめんの通行を禁じ、特に人目に映る華美なる衣裳は著すべからざる事等の方策を講じて見たが、夜間に駕籠先の提燈を消し、櫛・笄等を抜き捨てるなど、悪戯と罵声とはなかヽに止まぬ始末であつた。それが止む迄には可成りの月日を経てのことである。かくて開港場横浜の雰囲気中にらしやめん情緒が溶け込み、滲む程に、海港都市の景情を作り上げたのは、明治期に入つてからであつた。