志士の悲憤

唐人お吉に始まつた外交政策からして、らしやめん其者に対する収締りの如きも、幕府は寛厳宜しきを得。江戸に於ける公使館に向つては奨励的に侍妾を送り、横浜領事館の如きは、各館らしやめんを抱へないもののない有様となり、在留の外国諸商人も大方は、日本娘を蓄へる様になつた。斯の如く幕府は外国人懐柔策又は迎合手段の一方便として、らしやめんは寧ろ奨励的に認容の態度に出でて居つたのであるが、一方慷慨悲憤、勤王攘夷の士は、幕府外交の軟弱を憤り、倒幕の秘策を廻らし、攘夷の企を為す等、陰諜を策したものが多かつた。既に文久年間に入りて、生麦事件に次いで井土ヶ谷事件を惹起し、其前後に亙つて頻々たる外人殺傷事件が突発する等、囂々たる世情に直面し、此機会を窺つて大挙、事を諜るべき計策さへあつた。此一時に当り横浜に潜入した志士の多くは、港崎遊廓に遊び、らしやめん女郎に近づき、彼女等を煽動利用して、外交事情の経過を探り、外国人殺害の企てを為し、或は横浜居留地襲撃を画策する等、攘夷の方法を講じ、以て倒幕の具と為さんとしたのである。