慶応二年十月二十日、港内末広町(現今の公園前通。)豚肉商鉄五郎方から出火し、遂に港内目貫の商店街を焼き、居留地の大部分を甜め盡した。当時港崎廓にあつた志士達は、西吹く強風に煽られ、早くも廓外に火の手の上るを見て、此機逸すべからずと、予て打合せてあつた人々と相呼応して、居留地内に放火したと云はれ、或は情意投合の遊女と策動し、楼中に火を放つたのであると言はれ、さてはらしやめん女郎を煽動した放火とさへ伝へられ、幕府の屈辱外交に反感を持するもの、或は攘夷論者の策略の為めに、此大火は乗ぜられたものと、開港裏面史上の外伝として挿話されて居る。併し之に就いて何等確証のある可きでないから軽信すべきものではないけれど、此際に於てさへ彼女等の問題に上つてゐることを考ふれば、当時の時事問題に一役を受持つてゐた事を知るに足らうと推知されるのである。そは兎もあれ。此大火を画期として、横浜は対外貿易唯一の港として進展し、更に泰西文化の錦を飾る様になり、外交策は頻りに効を奏しつゝあつたが、幕府は飜然太政を奉還し、遂に王政維新を招来したのである。斯くの如くして時代世相は転変はしても、其間の表裏に介在したらしやめん女郎は、幕府外交の為めには推賞すべき一役者であり、功労者であつた事は、看過し難いものであらうと思はれるのである。