当時使用したらしやめんの異人屋敷行鑑札は、現今残存するもの殆ど無く、僅かに明治二年のものを存するに止まり、従つて前後の様式等に幾変遷を存せしかは全く不明である。挿図の商館一夜行らしやめん女郎鑑札は、関外吉原時代に於ける明治二年六月十二日に、廓内会所から発行した西之内紙の鑑札である。廓内比翼町宝来長屋宝槌屋豊吉抱へ秀菊が、ホルシン普魯西(プロイセン)、眼の下(眼の下とはミニスターの意で、甚だ滑稽な日本製造訳語の首位に属すべきものである。)屋敷に派出した時のものである。又挿図の細見には秀菊の名を載せてあつて、之にローマ字を添ヘたのは、必竟外人との取引に便したに外ならぬ。当時横浜在留のプロイセン(プロシヤ)公使は、記録の示す所に拠れば、ボンダラントとなつて居る。一方相手方なる宝槌屋のお職秀菊の格付は、直段合印に依ると、三十匁(現今の五十銭。)であつて、中以下の女郎である。たとへ其楼で首班であつても、美醜はとにかく、ミニスターともあるべき者が一夜ながらのらしやめんとする事は、日本人から見て大に物好きであると、不思議の感を起すが、其所は外人の嗜味の違つた所で或は外人向きの肉体美を持つた女であつたかも知れん。そは兎に角、此二箇の資料は横浜らしやめんを語るに最も有効な材料たるを失はぬのである。