是迄外国人之妾奉公いたし候節に、一旦吉原町遊女に相成候仕来之處、今般遊女・芸妓等、年季奉公人者一切解放申付候ニ付ては、以来外国人之妾二相成候節、遊女之名義相成候ニ不レ及候間、其時々委細之訳、其居住之戸長に相居可レ申、従前外国人方に妾奉公等ニ出居候者ハ、早々戸長方へ当人名前・年齢、其他巨細相居候様いたし、戸長共におゐては、戸毎承合、不都合無之様可レ致、若違背いたし候もの有レ之に於ては、急度可レ及二吟味一條、此旨相心得可レ申者也。
(明治五年)壬申十月十五日
神奈川県権令 大江卓
(此布告は娼妓解放令に関連した結果であるが、本令に就いては次章に記述する。)
右の布達に依り、従前の名付遊女の制を廃止すると同時に爾来外国人の妾となるには、戸長へ届出づる事になつて、当然鑑札の制も撤廃したのである。而して布達の内容には従前外国人方へ妾奉公に出居候者は早々戸長方へ云々」とあるより見れば、次節記述の如く当時所謂もぐり桂庵も多数存在して居たのであるから、かゝる布達の内容も窺知し得るので、無論遊女名義のものでなく、隠密なる外国人の妾であつたのである。されば前項記述の如く「横浜ばなし」には娘てう・たか・てつ、などあつて、何れも呼名である事から推察すれば、遊女たる源氏名は此頃から用ゐて居なかつたものと想はれるのみならず、外国人も職業婦たるらしやめん女郎よりも、町娘を要望して居たのであるから、楼主との諒解の下に、将た又、奉行所の黙認に依つて、詮議立てもなかつた様である。
従ってかゝる過渡期を過ぎ、明治期に入つては、町娘のらしやめんは、源氏名の如何にかゝはらず、自由であつたものと判ぜられる。かくて此布告に依り、開港期から十数年を経過して、始めてらしやめんの白由の天地が開け、従来岩亀楼に納入して居た鑑札料も撤廃されたのである。