らしやめんとし云へば、赤髭青眼の外国人の妾に限られた如くに思ふ者もあらうが、事実上はさう限つたもので無い。支那人の妾となるものも可成り有つたやうである。即ち彼女たちは横浜開港以後、現在の支那街界隈に居留する支那人屋敷へ出入した。当時支那人は所謂西洋人の従僕又は雇人として、屋敷内に働くものが多く、一箇の商館を構へて居るものは少数であつた関係から、其数も僅少であつたので、労働階級に在る支那人は、廓内に遊んで、らしやめん女郎に満足し、熱烈な情思を見せて居た。横浜開発の進度に連れ、居留地の一廓に住民街が形成される様になつた。慶応末年頃から、らしやめんの需要は多きを加へ、洋人のそれとは異つた情景を漂はしたのであつた。