混血児の国籍問題

安政開港の後、混血児の取扱方に就いて、色々面倒な問題が外人側より提出された。或外人は混血児を日本人でなく、自国の者として取扱ふ可きことを主張した。併し正徳五年の法令は、混血児を日本人と認めて、その海外渡航を絶対に禁止したのであるから、若も外人側の主張が容れらるゝならば、従前日本人として取扱うて来た混血児を新に外人と認めねばならぬのであつた。それで安政六己未年六月、長崎奉行岡部駿河守は、混血児の取計に就いて幕府の訓令を仰いだ。越えて翌万延元庚申年七月、閣老安藤対馬守は、(一)外人が混血児を外国へ連帰ることを希望するならば、一応その母たる丸山遊女の承諾を得べきこと、(二)母たる遊女承諾の上は外人の混血児を外国へ連帰ることを得ること、(三)混血児にも幼年・小児・成長・壮年之差別もあらうから、後患無レ之様取締方厚く勘弁いたし、神奈川奉行及び箱館奉行へも打合せた上で、更に上申せよと訓諭した。