紅毛人テキストルと混血児

それで長崎奉行は、神奈川奉行や箱館奉行とも打合せて見ると、神奈川に於ても、箱館に於ても、長崎同様異議を申立つる外国人も居ることが判明した。それで混血児の国籍問題は、容易に解決しさうには見えなかつた。併し長崎奉行は、混血児を残らず居留地に居住せしめ、外国人の人別として取扱ふことにした。たまヽ文久三癸亥年、神奈川に滞在せる蘭人Textorがさきに長崎出島滞在中に関係してゐた遊女正●(さんずいに和)(丸山町とみ抱え。)の出産に係る混血児三人(長女六歳、次女三歳、男子一歳。)を、神奈川へ引取り度き旨を蘭国領事へ、その友を経て依頼したので、蘭国領事は長崎奉行服部長門守へ交渉する所があつた。併し混血児取扱方の問題は未解決のまゝであつたので、長崎奉行服都長門守は、万延元庚申年、閣老安藤対馬守の訓令を参考としたものと見え一応母たる遊女正和(さんずいに和)に意向を訊してみた。然るに遊女正和(さんずいに和)は、幼児三人を手放するのは養育方その他何かと心配に堪へぬから、父たるテキストルの長崎へ帰来するを待受けたいと歎願した。それで長崎奉行服部氏より其趣を蘭国領事へ返答した。是に於て蘭国領事は、それでは、六歳と三歳の女児両人だけを神奈川へ遺し度旨侭び交渉したので、長崎奉行服部氏は、遊女正和(さんずいに和)をその抱遊女屋とみへ色々と説いて、その承諾を求めた。それで遊女正和(さんずいに和)とその抱遊女屋とみも漸く納得することになつた。そして幼児二人は、同年七月十六日、英国船チゥサン号に乗り、長崎を去りて、神奈川へ渡航した。

斯くて、混血児問題は未解決のまゝ、文久より元治を経て、慶応に入りても、なほ宿願となつてゐた。