遊女東路と混血児

慶応二丙寅年十月、英人Glover所属支那人李松筠が、かねて関係してゐた遊女東路(丸山さた抱)出産に係る混血児と乳母一人とを、上海へ連越度き旨を願出でたるにより、可レ然取計ひくれと、英国領事勤方エンネスクーより長崎奉行能勢大隅守、及び徳永石見守へ交渉する所があつた。是に於て長崎奉行能勢氏、及び同徳永氏が一応取調べてみると、遊女東路を表向き乳母として届出でた事が判明した。併しそれは問題にならなかつた。

混血児の国籍問題は、前述の如く未だ解決されてゐなかつた。それでも長崎奉行は、文久二戌年、閣老安藤対馬守が訓令した趣旨に拠りて、李松筠の混血児を上海へ連渡ることを許可した。尤も遊女東路渡海の件に就いては、一応幕府へ上申する必要があるが、さりとて幼き混血児に母たる遊女東路を隨伴せしめざるに於ては、人命にも拘る儀、強て差止む可き訳にもゆくまいと勘弁中、李松筠より改めて混血児のみ連越したしと申立てたので、長崎奉行は異議なく之を許可した。

以上記述の如く未解決のまゝ経過し来つたので、国籍如何に就いては、奉行所も幕府の指令を必要ともせず、相互間の自由意思に任せたのであつた。明治維新に入り、更に明治五年一月、戸籍法実施布告以来、混血児出生後の国籍は、其何れにか所属すべく自然に余儀なくされた結果、之を届出づる規定となつた。相手方外国人は、其生母に扶育を依頼し、成長後自国に連れ行くものもあつたが、明治六年一月十八日、太政官布告(註一)が出てからは、主として母方の私生子として日本の国籍に附けられたものが多かつた。

生れた児に愛著殊に深きを感じた外国人は、自国に連れ行くのは無論であるが、本国への関係上顧慮あるものは、彼女の私生子として相当の養育料を与へ、日本人として命名したのである。此種の混血児は相当多数に上り、富有な外国人を父とするものは、其教育等に恵まれ、順境の経過を以て一家を為すものもあり、怜悧にして有望な人格者も生れて居るのである。之に反し、父に離れ母の愛に恵まれず、合の子なる異称の下に社会的に壓迫を受け、且つ自からを卑下し勝ちなる逆境に置かれたものは、自我観を発揮して、自暴自棄に落ち、放浪の末、諸種の犯罪を敢てするものがあつた事は其例が少なくない。

是れより先、慶応三年五月、条約国民に限り、双方の出願に依り、許可の上で、婚儀を整ふべき旨を発布されたが、実際は彼我間の正式婚儀を挙げたもの少なかつたらしい。故に彼国当事者でも其果して許可さるゝものなるやも忘れてゐた位で、明治五年十二月十九日(陽暦)、横浜駐在の英領事ロッセル・ロバートソンから、大江権令に宛てゝ、英人と日本婦人と結婚する際、日本では之を允許するや。又允許さるゝとせば、其婦人に属する諸品、即ち金銀・場所・家屋等は其夫に属するものなるかと照会して来た。そこで大江は之を外務大丞柳原前光に糺した所、外務卿副島種臣から之を正院に伺出でたので、正院はまた之を大蔵省に下して、大蔵大輔井上馨の意見を求めた。然るに井上は動産は差支は無いけれど、不動産に至つては、五害があるから宜しくない。五害は(一)買地雜居の二禁に関して支障を来たす。(二)土地が外人の手に属したのでは、日本の土地が定額の租税を収めるのみで、自国人民の其土地に借居する者、与奪可否の権一切を外人の権に帰することゝなる。(三)土地が一旦外国人の所有と為ると、再び邦人の手に戻るの期はあるまい。(四)今後年月を経るに従ひ、其所有地が次第に外人の手に移る。(五)未開の人民が内地の利害を顧みず、眼前の利慾に眩まされ、名を結婚に藉り、私利を営む者の無いとも限らない。と答申に及んだ。そこで柳原外務大丞は正院の旨を含んで大江に答ヘた。明治五年三月十四日の太政官布告で、自今外国人民と婚姻差許云々とあるのは、右の条件付の許可であることは申す迄も無い。併し時勢に適応した此布告によつて、純真なる彼我の結婚は、公然行はるゝ様になった。然しらしやめん需給の関係は、古往今来異なるものなく、愈々其全盛さを見せて居たことは無論である。