混血児に対する文書

以二書附一奉二申上一候。私儀去酉年より、御當港吉原町にて遊女渡世罷在、同亥年六月中、東京神田須田町佐兵衛娘する儀、奉公ニ召枹候処、同卯年中、都合ニより右渡世相止候節、はる儀す幼年之儀ニ付、外方へ遺し候儀不便ニ存じ、私養女ニ仕置、同巳年中、当地居留和蘭人ブランジへ召使ニ差遺し置、其後同館社中ハリーと同居致、小児出生当国人ヘクト蔵船ニ罷在候間、取戻之儀申入候得共、小児も幼年之儀ニ付差置候方可レ然と奉レ存候。依レ之毎年相当之養育料取極呉候様、右ヘクトへ御理解被レ仰聞一被レ下度、此段奉ニ願上一候。以上。

壬申四月二日末吉丁よね

神奈県御役所

以二書翰一啓達致候。然ば我国人佐竹栄次部同居よねより、貴国人ヘタト氏へ対し、娘はる取戻方願出候儀、先達ま御引合申置、はる竝ニ訟訴人よね一同呼出取糺候処、よねより別紙之通申立候間、委細右ニて御承知被レ下、同人願出之通、至当之給料相遺候様御処置有度、此段尚及二御掛合一候。以上。

明治五年壬申四月五日神奈川県参事 大江卓 荷蘭国代弁領事

ヱ・ジ・ボードイン貴下

右は混血児に対する養育料及び生母への扶助料請求の申出であつで、其結果は不明ではあるが、無論養育金を貰ひ得る様になつたらうと想はれるのである。而して混血児の処置に就いては、父方へ遣はしたか、又母方に引収つたかも不明であるけれど、是れ亦双方の円満に解決されたものと想像される。斯様な要求乃至争議的事件は、当時間々起つたことであらうと断ずるに相当な理由ありと云ひたいのである。