らしやめん女郎は、素より邦人の目からは醜婦其ものであつたに相違ない。身体頑健の外に、彼女等に何を求め得らる可きぞ。されば 、不行儀不作法の通有性に加へ、羞恥可憐の情想を欠くものが多かつた。要するに金銭の前に只生きるのみの彼女等であつた。外国人ならずとも、此種の婦女には倦厭と侮蔑とを向けらるゝのが自然である。そんな状態であつたに拘らず、横浜に於ても町娘のらしやめんなるものが出現し、一方江戸に於ても亦下婢又は侍妾である町娘が、公使館に雇はれる様になり、らしやめん女郎には倦きた折柄、外国人の眼にも美醜の判別と趣好眼とが生れて、町娘を要望するに至つた。爾来漸次らしやめん女郎繁昌の夢は衰徽を来たして、職業婦にあらざる娘さんが多く需要さるゝに至り、之に附随したもぐり桂庵の活躍と相俟つて、彼女達は此機運に乗じて、らしやめん界の天地を風靡した。かくて幕末期から維新に亙り、其需要多きを来たし、更に明治初期の全盛期となつて、居留地外人の殆どがらしやめん抱へ入れに浮身をやつす有様となり、爾後幾春秋、此華は萎むこと無く、らしやめんの称呼は何時しか消える様になりても、若い女達は艶麗芳美な極彩色の姿に隠れて、外国人の善き件侶として、ありし昔の俤も濃く、其全盛を伝統する次第となつた。