横浜沿革誌に洋妾の風俗を
髪形チ衣裳ハ娼妓ニ、帯ノ結風(当時ノ)芸妓ニ類似ス。一見シテ外妾ナルコトヲ知ル。と記して居る。即ち東錦絵に見る様な江戸時代遊女の扮装を為し、両鬢の張りの強い上に、大きな髷を載せ、櫛・笄の飾は使用せず、大体に於て襦襠を除いた丈けの異りであつた。而して帯の結風は芸妓を真似て、而かも派手模様のものをだらりと後ろ結びにして居たと云ふ事である。当初はらしやめん女郎も、名義借のらしやめんも、同じ服装であつたが、娘さんが多数商館入りをする様になつてからは、漸次純日本風な町娘らしい装ひに移つて行つた。而して一般に派手好みであつて、外国人の見る眼華やかさに迎合するに努力し、且つさう仕向けた事は勿論である。
長崎丸山遊女の多くが、紅毛人から贈られた異国嗅多量な装飾を為して居たと同じ様に、横浜のらしやめんも、外国人から貰った織物や装身具を身に附けて、得意の姿相を誇ったのであった。かくて物質的満足と寵愛とを恣まゝにして、市人の嘲罵や悪口にも怯まず、現実の代償を得て、誇らかな、生活振りに満悦し歓喜したのであった。