綾羅の贅

らしやめんが、遊廓の専売特許稼業から開放されたのは、明治五年十月であつた。夫れからして女郎式の扮装や拘束から離れて、彼等の天地を広いものにしたのであつた。異人屋敷の出人者や桂庵の仲介に依つてらしやめんとなつた町娘の繁殖は、夥しい数に上つた。而して異国人の寵愛を一身に集めた彼等の豪奢振りは、蓋し当代の尖端を走つたものであつて、衣装装身具の如きは、内外の粋を集め、贅沢を盡したと言はれて居る。従つて服装の華美なる事は、言ふ迄もなく、色とりヾの五彩も綾に、目映ゆい程であつた。たまヽ彼女達は其主人なる外国人と連立ち散歩する姿こそは、女王の権化であるかの如くに、衆人の羨望と嫉視との的となつて、孔雀に似た誇りを見せて居た。市内に於ける当時の呉服屋・小間物店の常得意は、彼女達であつた。元町や弁天通り・馬車道通りの店舗は、第一位の顧客であつた。殊に山手・山下両居留地を受けた元町通りの商家の店頭は、らしやめん達に依つて更に其繁栄を見せ、行人難踏の中に異国人と歩む彼女等は、正に一幅の絵巻を展開して、開港場情緒を遺憾なく漂はして居た。