太田屋新田の内で一万五千坪の地を下渡され、埋立を急いだ港崎遊廓は、前節記述の如く種々な故障の為め、期限の安政六年六月二日迄に開業する事が出来なかつた。因つて七日間の延期を願ひ出で、鋭意工事を督励したのであつたが、遅々として進捗せず、折りからの梅雨に際して塗壁なかヽに乾かず、開係者一同は焦慮中、六月八日、佐吉等は奉行所に召喚され、日延最終期間なる明後十日迄に開業の運びを致すべき旨厳達されたのに対し、佐吉等は仮令、徹宵で工事を急いでも到底間に合はない旨答申した。是に於て止むを得ず合議の上、一策を案じ、幕府で建築した応急施設の外国人貸長屋二十四棟中の一部、両側(現在の中区本町通り、山下町五十番及び七十番の両側付近。)に亙る表通り筋の三棟を借受ける事となつて、請書(註一)を差出させ、本地の工作に使用中の職方人夫全部を引上げ、昼夜兼行で内法造作・外囲ひ・表裏大門・番屋・局店等を急造し、十日開業の手筈を為す一方、遊女抱へ入れに就いては、宿場女郎即ち飯売女以外のものを以て之に充てる約束であり、且つ之は外国方の註文であつたので、予てより佐吉等は諸方に人を馳せて苦慮を重ねて居たが、所期の素志と反する事が多く、始めて異国人に接する女郎を志望するものが皆無の有様で、焦慮に焦慮を重ねるのみであつた。奉行所に於ても、外国方との誓約もあり、十日開業の運びを今更に延期も出来ず、遊廓願人佐吉等の責任も重大であつた。是に於て止むを得ず、奉行所の諒解を得て、神奈川宿旅籠屋の飯売女を以て急場を間に合はせる事とし、請書(註三・四)を差出させた。港崎廓開業延期や、仮宅の急工事や、遊女抱へ入れに就いては、実に目まぐるしい焦慮と心痛を重ねた結果、佐吉・五兵衛の両人は、之が為め病床に臥するなど、実に慌しい幾日を経過して、兎に角曲りなりにも十日開業の運びとなつたのである。「安政六年七月改。御免貿易場明細書 再応改。」と表書し、半紙判横長折四枚綴仕立の板行物に、横浜見物案内を記述し、本町通り及び裏町弁天通りを図して、両側町並諸商人の名寄せを為し、又諸役人を連名してあるものであるが、其本町通りの部に左の如く仮宅を図示してある。
又名古屋藩沢田庫之進の安政六年の日記「錦園随筆」に、
御免遊女廓港崎町仮宅
右之通、横浜遊女町大門口へ棒杭立。
一、金浦楼 会之助 神奈川旅籠屋持。
一、五十鈴楼 重助右同断。
一、保橋楼 その 程ヶ谷同断。
一、出生楼 倉吉 藤沢同断。
右四軒六月より遊女屋店開き致し、遊女揚代一昼夜ドルラル一ツ、日本金三分也。猶追々出来候由。
とあつて、両者を対比するときは、幾分の相違あつて、証明に迷ふのであるが、大体当時の施設と状況とは推知するに難くない。固より応急施設の仮宅営業であつたから、右両者の記録も多少の誤りあるは無論の事である。而してかかる記録の存する以上は、妄りに推測することは許されないけれど、表通りの遊女屋は、何れも異人揚屋として営業し、長屋女郎は日本人を客としたものと判ぜらるゝのである。従つて当時の全盛さも、右の見取図に依つて想像され、遊女としては飯盛女郎が多数を占めて居たことであるから、多分の猥雜なる情景を浮べたものに相違ない。かくして異国人の遊興者で賑び、外国商館行(註五)のもしやめん女郎も、前章記述の外、多数異国人の需要に応じて供給され、過渡期に属する仮宅営業は、開港場横浜に特異の風景を現じたのであつた。