延期に延期を重ねて諸工事と設備とを急いだ港崎遊廓は、安政六年十一月初句、移転の準備が出味たので、廓内規則を請定し、同月十目、外国奉行酒井隠岐守の検分を請ひ、差支へない旨を達せられ、翌十一目、駒形町の仮宅を引払ひ、一同新遊廓内に移転開業した。かくて諸般の設備を終り、佐吉は同月二十八日、戸部奉行所よりの差紙に依りて、翌二十九日五ッ時(午前八時)。出頭し、外国奉行竹木図書頭・目附神保伯耆守・調役脇屋卯三郎・御徒目附大人保彌助列座の上、廓名主役を申付(註一)けられ、廓会所の隣地に、間口二間、奥行六間半の母屋及び附属建家とも、総坪二十八坪の畳建具造作附の名主役所を下渡された。是に於て佐吉は、それぞれ廓内の諸役を定め(註二)、廓会所を設け、取締向きの部署に任じ、秩序を整へ、順次廓中の設備を完全にして、京の島原、駿府の二町街、江戸の吉原に比敵する遊女街が出現(註三)したのである。
港崎廓の繁栄は、年と共に益々盛大に赴き、其存続も長く、七箇年に亙つたのであつたが、慶應二年十月二十日に、惜しくも焼失(註四)し、槿花一朝の夢と消えて終つた。