太田町の仮宅

惨状を極めた火災を大円団として、不夜城港崎遊廓の舞台は幕を閉ぢたのであるが、復興を急ぐ市民の努力と共に、楼主一同は遊廓の再興を謀り、当路の諒解を得て、一時仮宅を太田町(現在中区太田町三・四丁目付近)に建造し、営業を開始する事となつた。而していち早く既に同所に仮宅を建てゝ開業するものもあったが、避難の儘其所に仮住居して開業したものも可成りの数であつた。即ち元町の民家に避難した出世楼は、同町五丁目石川嘉兵衛宅で、局見世の上総屋は同所の大河原七五郎宅で、其他数軒の遊女屋は、新指定地吉原に移る迄約半歳の営業を続け、又弁天通り三丁目其家には、神風楼が仮宅したとの古老の話柄に伝へられて居るが、外に証拠とては存せぬから、此間の消息を審にする事が出来ない。当時太田町の仮宅以外、元町等に散在して居た事から見て、其営業振りの乱雑さも想像さるゝのみならず、更に外国人の遊興も岩亀楼一楼の規定であるに拘らず、其他の各楼でも公然の秘密を敢てして居たものと思はれ、収締りも及ばず、頗る猥雑の空気が漲つて居た事と想はるゝのである。而して斯かる混沌期を経過して、新指定地の吉原廓に引移つたのは、慶応三年五月二十九日であつた。