祝融に禍された港崎廓は、関外吉原町に移転後、更に又紅蓮の焔に舐められ、再度の災厄にも怯げず、吉原町で類焼した妓楼は、廓外長者町通り常清寺附近、(現在の中区長者町六・七丁目付近。)の空地に仮宅を建てゝ、営業を開始して居た中、兼てから移転候補地であつた太田村中畑山(現在の中区南太田町東耕地付近。)の畑地を指定(月日不明。)されたが、遊廓地建設には、山地を削り地均し等に莫大の負担をしなければならないので、妓楼一同は荏苒協議の結果、明治五年七月二十日附を以て、高島嘉右衛門の埋立地高島町(明治五年三月、町名を付す。)に移転開業致し度旨(註)の嘆願書を差出した。県庁では詮議の上、将来適当の時機に於て、予定地中畑山に移転の条件を以て之を許可し、高島町を遊廓地と定め、吉原町より移転の旨を達した。(月日不明)
是れより先、高島町は鉄道線路敷地と、之に沿うた国道は、高島より政府に寄附する代りに、国道左右の地は高島個人の私有とし、地税の外、諸税を賦課しない事としてあつた。是れ政府に於て其報酬として、遊廓設置の許可を与へたものだとの消息が伝へられて居る。かくて吉原町焼失後、仮宅営業中の妓楼は、いち早く其工事に取掛り、明治五年末には、既に二十余軒を算し、爾後相次いで移転者増加し来り、茲に更に新開の遊里を出現したのである、爾来幾年ならずして、此地は横浜・神奈川問の鉄道線路に沿うて、貴顕外客の通行に際し醜態を目撃せらるゝ処があるとの理由で、、移転の議が起り、其結果として、明治十五年四月を期限に、新指定地なる真金・永楽町に移るべく余儀なき次第となつた事は、極めて当然であるが、其土地の開発に貢献し、神奈川の殷賑を連鎖し、且つ京浜問の連絡交通上に及ぼした利便は、蓋し偉大なるものであつた。