高島廓は、将来適当の機会に於て、予定の候補地太田村中畑山に移転する事になつて居た。即ち高島町は仮廓の形式であつた。然るに逐次開発すべき中畑山の土取り地均し工事の協約に就いては、未だ著手せず、全く放棄の姿に置かれて、自然消滅の感があつた。かゝる有様であつたので、各楼主は心中にて無期限を期待し、黙契的に新築増築等を為して、自家営業隆盛の待望を怠らなかつた。斯くて明治十ー年に至り、当局にては予てよりの憂慮であつた風紀取締上の関係と、将来とを期する為め、移転の必要を痛感し、既定の中畑山の外、適所もがなと考慮中、埋立事業に関係し、且つ土地発展に熱心なる伏島近蔵・河野与七・山内治助等は、高島町廓を関外埋立地附近に招致策を企画し、貸座敷営業者神山謙次・岡崎譲等と謀り、且つ移転地なる吉田新田二ッ目・三ッ目(日之出川・富士見川後方の埋地区域)の土地所有者、池田候爵の監理人長瀬鉄蔵の諒解を得、其他智謀の士を糾合して、移転運動を起した。或は貸座敷業者を説得して県庁に迫り、或は太政官当路の顕官を動かすなど謀略を回らし、遂に翌明治十二年一月十五日附を以て、遊廓移転に関する建白書(註一)を県庁に提出した。かくて移転運動の継続を怠らず、許可指令の促進に努めた結果、県令野村靖は、十三年四月を以て、山吹町・富士見町・山田町・千歳町の地を遊廓地と為す旨を定め、且つ十五年四月限り、高島町を撤退すべき旨を令達し、久しきに亙つた移転問題いは解決したのである。