是れより先、遊廓地移転運動中、長者町一・二・三・四丁目間に設置の議もあつたが、結局は山吹町外三箇町を指定したのである。是に於て県当局は、高島町撤退期限内にても、取締り其他の関係上、早々移転の事を希望して居た。然るに新指定地の区割設定と、地主及び楼主間に地割上の問題とが錯綜して、容易に決定しなかつた。此時に当り、高島町の撤退を促進し、且つ新遊廓地の建設及び設備の完全を期する為め、一時長者町に仮宅を構へ、其所に引移り度旨請願に及んだ。当局にては斯の如きを機会として、又々移転地変換等の事態を生じ、且つ一部の利権獲得者などの策謀に乗ぜらるゝ事を慮り、指令を避けて居た所、明治十三年秋の風災で、各楼は大破損を被つた折柄、漸く一切の諒解が成り、翌年一月中、長者町に立退営業の儀(註二)を届出で、仮宅の建設を急ぎ、四月中、移転開業の運びとなつたので、同月二十八日附、十名の連署を以て無業立退願(註三)を差出した。かくて右十名の移転者を先頭に、五月から仮宅営業を開始した。爾後、高島町からの移転者を加へ、十五年四月の期限迄には、大方引移りを終つた。
岩亀楼佐吉外九名の第一同移転者に依つて、先づ開業の運びとなつた長者町仮宅営業は、現在の中区長者町三丁目両側の一廓であつた。即ち其東側二丁目寄り角地には中川とめ、続いて大和田兵助・神崎重右衛門・石崎ひの・小島延藏、残部の一画は佐藤佐吉が占めて、日之出橋橋詰に及んで居た。西側には藤井能次郎・島本仁兵衛・松崎さだ、四丁目東側角地に和井田龍吉(以上楼名不明)が仮宅を構へた。以米第二次・第三次と移転者が増加し、一丁目車橋から四丁目千秋橋に至る間は、従前から在つた民家に相次ぎ相隣りて、忽ち殷賑の巷街を現出し、道路の両側には、四季折々の花木を配するなど、添景に苦心した。而して移転後、第一次の景気附け、乃至顧客吸引策として、十四年十一月三日から、晴天十五日間、俄手踊(註四)の余興を挙行した。爾来各楼は挙つて一際の勉強振りに精進(註五)し、高島町にまさる繁昌を見せた。因に、長者町一丁目に鎮座してある水天宮は、此頃から毎月五日・二十日を縁日として賑やかさをつゞけ、今日に至つて居るのである。