山吹町外三箇町の新指定遊廓地は、区画決定と地割等の凖備に荏再として居たが、先づ以て十五年一月、左の通り区画の決定と町名の改廃とを行ひ、続いて地上の整理を為し、五月から廓内地の割当てに著手した。
(町名)(丁目)(沿革)(改廃町名)
明治七年七月。吉田新田埋立地に町名を附す。
明治十一五年一月、三丁目西側を永楽町一丁目とす。
明治五・六年頃、吉田新田埋立地に町名を附す。
明治五・六年頃、吉田新田埋立地に町名を称る。
明治五六年頃、吉田新田埋立地に町名を附す。
廓の位置は、現在の、中区新吉田川筋武蔵橋、及び横浜橋間の南側と、千歳町二丁目西角向側、及び浦舟町一丁目東角向側に至る一区画、約二万坪の地である。
因みに、遊廓建設当時は、永楽町と真金町との間に、富士見川(幅員十五間)があり、中央大門通仲の町筋に真金橋が架けてあつたが、明治二十九年六月、河川埋築と共に廃橋し、造成地を永楽町に編入して、家屋を建築した。
右の如き整理に依つて遊廓を建設する事となり、十五年秋頃から、各楼及び諸商人は家屋建築の工を起したのであるが、資金其他の事情に依り、工事の遅速区々であつて、既に移転開業した者があり、猶、長者町仮宅に残留して営業してゐる者があつて、両廓営業の有様であつた。而して全く移転を終つたのは、二十一年七月であつた。かくて今日に至る迄、四十数年間を同地で営業を継続して居る。