真金・永楽二箇町に移転以来、市況の隆昌と人口の増加とは、延いて妓楼の増加を来たし、其繁栄を招来した。以後、妓楼と娼妓との数は、明治三十年前後に至つて、頓に増加を来たし、明治四十一年末には、真金町三十三軒、永楽町三十四軒、計六十七軒を数へ、娼妓の数は、真金町で六百二十五人、永楽町で八百三十八人、計千四百六十三人を算した。更に大正年問に入り、妓楼八十軒前後に上り、娼妓千八百人余を数へ、此期間を最高調の時代として、大正十一年末には、八十三軒、千二百人余となつた。震災後は、時代の推移に囚り、娼妓数は震前の半減以下となつた。即ち昭和四年末の調査に拠れば、七十軒、五百二十五人に激減した。以来、新時代の世相に呪はれて、妓楼の廃業相踵ぎ、娼婦又遞減して、凋落の運命を辿りつゝあるとの事である。