神奈川宿の飯売旅籠

往古から神奈川は、宿駅を形造つた海沿ひの繁昌地で、東海道が開けてからは、逐年其賑かさを増して、街道中有数なものに数へられ、箱根手前、江戸の方第一の宿場であつた。されば伝馬宿・廻船問屋を初め、旅籠屋が軒を竝べて、其繁昌さを見せて居た。江戸へ上りの旅人は、藤沢を立つて神奈川宿泊り、又下りの旅人は、江戸を立つて神奈川宿泊りとなる。房総の方からは富士・大山詣、さては江ノ島・鎌倉への物見遊山者は、海上を神奈川へ来て泊りとなり、殊に参覲交替の折の行列衆の宿りには、一際の賑ひを現じた事であつた。

是等旅人の宿泊する神奈川宿内の旅籠屋は、大方飯盛(又は飯売)旅籠屋であり、給仕と避女とを兼ねて所謂宿場女郎を抱へて、町家の間に散在して居た。(旅籠屋中でも普通旅人の泊る家を平旅籠屋と呼んで居た。)此飯売旅籠屋の沿革を記録した温古見聞彙纂に、徳川氏入国以後、慶長六丑年、彦坂刑部・大久保十兵衛・伊奈備勤守巡見の砌、東海道外宿々一同、駅場認可以来、宿次相勤め、旅籠屋渡世竝売女差許したるなり」と見え、其他の文献にも、同一の事があるので、此頃からの濫觴と思はれる。然るに此年から五十九年後の万治二年に、道中奉行から東海道各駅に娼婦を置く事を厳禁した。(駅逓志稿)之を以て見れば、当時既に各駅には飯売女が居た事が知れる。更に五年後の寛文二年十月、東海道各駅から隱娼を駆逐し、下婢以外の婦女を置く事を禁じた。(駅逓志稿)斯く禁止令を設けても、其効果は見られなかつた。却つて年々増加する傾向を呈し、歴代の道中奉行も苦慮した事であつたが、更に五十七年後の享保三年十月、禁令を解いて、一戸二人づつの飯売女を置く事を許した。(駅逓志稿)是れ以来、娼婦を抱へる事が出来て、宿内はいやが上にも殷賑を見るに至つた。文化十一年の十二月七日の令には、一戸二人の制を厳(註一)にしたが、其後また取締りも次第に緩んだらしく、飯売女の繁昌は天保の頃は其極に達し、六十軒以上を数へたと記されて居る。