飯売女

元来飯売女は、便宜上差許したもので、決して公然なものでは無かつた。されば其取締りにも峻厳なものがあつて、著衣は木綿を用ゐ、聊も華麗に渉る儀無レ之様とあり、(文化十年四月の触)同時に無宿無頼の徒を取締つたのであつたが、密に制限外の人数を置き、著衣も華美に流るゝやうになつた事は勿論である。斯様な状態で、当時飯売旅籠屋が青木町・神奈川町に亙つて散在して居た。即ち青木七軒町(現在神奈川区栄町一・二丁目付近で、明治五年、高島町埋立後の竣成地)・久保町(現在神奈川区青木通)から瀧ノ橋を渡つて、西ノ町・仲ノ町・九番地・十番地(現在神奈川区神奈川通一・二・三・四丁目)に掛けて、商家民戸に介在して軒を竝べて居り、安政初年には、四十数軒在つたと言はれて居る。然るに安政六年六月に、横浜が開港になつた際、宿内の飯売旅籠屋四十一軒から、官命に依り五十人を港崎町遊廓に送つたので、急転直下の寂莫を呈して終つた。次いで翌月となつて遇々外国人渡来につき、彼我間に紛紜を惹き起す事を顧慮して、遊女召抱への禁令(註二)が出たので、旅人も足を留むるものなく、全く疲弊其極に達し、廃業同様の姿となり、宿内の諸賄にも差支へを生ずる程になつたので、文久元年九月(註三)、宿内の年寄・問屋・名主等が、百姓末々に至る迄の総代として、難渋至極の儀につき、何卒格別の御慈悲を以て、飯売女抱へ置きの儀を差許し、云々の歎願に及んだ。(此歎願書は神奈川宿の繁栄を窺知する事が出来ると同時に、其願の趣旨も徹底して、誠に有効な資料であるから後条に掲げた。)かくて歎願の趣は、文久三年になつて許可され、茲に再生の思ひをして、宿内は更に繁昌を迎へる事となつた。