埋地時代

埋地時代

神奈川宿の飯売旅籠屋は、安政六年七月一日、其営業を禁止され、更に文久三年になりて、其禁止を解かれ、爾来漸く殷賑を呈して来たが、繁華は横浜に移り、自然営業は不振に陥り、廃業者を生じて来た。かくて明治に入り、各営業者は廃合の結果、当時瀧下町海岸に諸国廻漕船の船夫を目当てに、安直の飯売宿屋が数軒開業したが、宿内に散在して居た従来の飯売旅籠屋は、明治五年九月、芸娼妓解放令が出た頃から順次廃業し、自然殆ど消滅の姿となりて終ひ、只僅に数軒を残して居たのみで、著しい消長も見なかつたが、明治十七年六月、県逹第五十六号に依り、伸之町・九番町・十番町及び埋立地なる宮洲町(現今の栄町三丁目付近で、明治五年、高島町埋立竣工に前後して出来た地。)に区域を定められ、更に明治二十二年四月、県令第二十号に依り、宮洲町・七軒町の埋立地に限られた。恰も此時以前に、高島町遊廓は真金町永楽町に移転したので、神奈川遊廓は茲に挽回の機運を促進され、従前の大小妓楼は、新指定の埋立地(栄町一・二丁目付近)で開業する様になった。

当時の妓楼は、栄町一丁目から二・三丁目に亙る地点、即ち旧の碧海橋(現今の神奈川区役所裏通り)から宮洲橋(現今の神奈川公園裏手付近)に至る前後の道路筋の民家に介在して、佐伯楼・丸二楼は碧海橋の西にあり、其東詰海岸側には、神風楼が一廓を構へて、当代の豪華を見せ、前側には宮戸川・山口・田中屋、蔦屋・橋本等の引手茶屋があり、続いて上総楼・中川楼・松吉楼・島崎楼・旭楼・葬栄楼、藤吉楼・品川屋・石川屋・伯島楼等の諸楼、更に宮洲橋を越えて、新上総屋・蓬莱楼・金倉楼・駿河屋・佐野屋・金浦楼等が両側に軒を竝べて居たが、明治三十三年五月、県令第六十五号に依り、反町に移転した。