保土ヶ谷遊廓も、神奈川遊廓と同じ経過で、宿場女郎則ち飯売女は存在して居たが、其繁昌の程度は、神奈川には及ばなかった。而かも飯売旅籠屋の数は順次増加して、弘化・嘉永の頃は、四十七軒に達して居た。(政治編一の八八五頁を参照。)。但し保土ヶ谷と神奈川との両宿は、殆ど続き合ひの地の利を得て居たので、相開連して相応の潤ひに恵まれて居た。
今前記四十七軒の飯売旅籠屋の経過乃至沿革を考察するに、此四十七軒の中に、天明年間から開業のもの四軒、寛政年間から開業のもの四軒、文化年間から開業のもの八軒、文政年間から開業のもの十五軒、天保年間から開業のもの二十軒と、漸次其家数を増加して、天保末年頃には、既に可成りの繁昌さを見せて居た。かくて幕末期を過ぎて、明治元年の宿中家数及旅籠屋敷は、
一、宿内家数 七百十軒
町竝十九軒
一、放籠屋 七十一軒
大、十八軒 中、二十九軒 小、二十四軒
外ニ本陣 軽部清兵衛
脇本陣 武兵衛
与右衛門
八郎右衛門
と記録されてゐる史料が存する。又同年の飯盛人数書上を見ると、左の如くである。
東海道程ヶ谷宿
一、総人数 二十四人
但一人ニ付揚代金二朱
右者当宿飯盛人数竝揚代金、其取調奉二書上一候処、相違無二御座一候。以上。
右宿
座頭 金子万十郎
同 石田善右衛門
役人惣代 奈流芳清一郎
之を見ると、両者の数は可成り増大なものであつた。これは神奈川宿が、往年飯貴女を抱へ置くを禁止された折の自然増加とも想はれ、従つて其頃の繁昌さも知り得らるゝのであるが、軈て明治五年九月の芸娼妓解放令に依り、著しく減少を来たし、其後神奈川と同じく二回に亙つて、宿中散在の営業区域を制限され、最後は本宿通りの地区(岩間上町)に狭小され、遂に明治三十三年五月の移転命令に依り、順次岩間上町新開地の一区画内に引移つた。