横浜公立徴毒病院

是れより先、明治六年十二月、太田町六丁目の横浜市中病院を戸部町字久保に移転し、七年二月、十全医院と改称して、完全な組織としたのを機会に、既に種痘所を十全医院に移して、該本局となした際、徴毒病院をも統合すべく計画した結果、十年十二月、十全医院の隣地伊勢町三丁目字戸部山に、千四百五十八坪の地を相し、新築移転し、其内容を改善し、外国人医師は十全医院の雇を以て兼務せしむることゝ為し、同時にヒールの任を解き、其管理権を我に収め、横浜公立徴毒病院と改称した。是れ実に陸奥の建策が、大江卓・中島信行の二県令の時代を経過して、県令野村靖の時代に至る満五箇年後、漸く茲に解決されたもので、外交上に関する当時の強交渉の一として、相当苦慮の煩瑣に終始したのであつた。