以上の沿革改変を経て、徴毒病院は完備したのであるが、娼妓が検査の為め、高島町から戸部町まで出張するには、遠隔であり、且つ難渋につき、廓費用を以て高島町二丁目海岸寄りの裏に取建ての儀を、十年十二月願出た所、やがて許可され、次いで右建築中、高島町九丁目の従来の病院を出張所として使用したき旨願出(註一)た。是亦、やがて許可されたので、入院患者の外は、すべて高島町出張所で検査を受ける事となつた。かくて内外の整頓を機会に、従来の諸規則を廃止して、新規則を制定した。而して戸部山の徴毒病院は、其存在二十年を経て、明治三十年、県下十三箇所遊廓取締規則が発布されたのに準じ、遊廓所在地なる真金町に移転し、横浜娼妓病院と改称し、更に真金町病院となつた。